2002年から06年まで5年間、M-1の審査員を務めている洋七。
「ここ数年はM-1で優勝しても、3、4カ月くらいで(表に)出てこなくなる。僕が審査員をやっていたころに脚光を浴びた中川家やブラックマヨネーズ、フットボールアワーは未だに生き延びてます。吉本興業が自社で劇場を持っていて、そこで漫才を披露する場があるからですよ。テレビ出演だけでは限界があるんです」(洋七)
そこで洋七が引き合いに出すのが、デビュー2年の22歳で紳竜として漫才ブームに乗り、若くして芸能界でブレークするなど、中田と被る点のある島田紳助さんだ。大ブレークした紳助さんはその後、司会業に進出。一時はお笑いの帝王と呼ばれるまでになったが、11年8月、暴力団との“黒い交際”を認めて電撃引退している。
しかし、翌年の元旦には、当時吉本興業社長だった大﨑洋現会長が紳助に対して復帰コールしていたという。